四十路女のつぶやき

今年40歳になった記念(?)に日々思ったことなど書いてみようと思います

志村けんがいた風景

小学生の時祖母と一緒に暮らしていた。
祖母は志村けんが出てる番組を見せてくれなかった。
理由は「食べ物を粗末にしたり下品だから」
昔は今みたいに番組を制作するにあたってあまり厳しくなかったから生卵を投げたりとかしてたのを祖母が見てこれは見せちゃダメだと思ったらしい。

でも、学校に行けば誰か彼かがモノマネをしたりしてて
大人気だったので私も見たいなと志村けんに憧れを抱いていた。同級生がやってる低レベルなモノマネですら何をやってるのかよくわからないけど何となく面白くて本人はきっととても面白いんだろうなと。

祖母が亡くなり初めて番組を見た。その時の光景を今も覚えてる。両親の寝室にあった母の嫁入り道具の一つだったらしいブラウン管でダイヤル式の小さな赤いテレビ。
その古いテレビから流れてきた番組は衝撃的だった。
同級生のモノマネなど比べ物にならないくらいなんて面白いおじさんなんだろうと。学校であった嫌なことも番組を見てる時は忘れることが出来た。
それからは毎週の楽しみになりよっぽどの理由がない限り欠かさず彼の番組をみるようになった。

私の中ではさんまよりたけしより志村けん
それはずっと変わっていない。


亡くなった父は家では笑わない男だった。
楽しそうに会話をすることもない。
母とも子供とも。
声を出すのは用事を言う時だけ。
あとは1人で酒を飲みながらテレビを見てた。

そんな父が笑顔を見せる数少ない番組が
志村けんが出てる番組だった。
あの父が声を出して笑ってた。

その頃の私は志村けんはもちろん好きだったが
ギャグやコントのオチがだいたい読めるから
面白かったけど大声を出して昔のように笑うことはなかった。

でも、父は何度似たようなものを見ても
毎度笑ってた。
そんな父の笑顔を見てる時が私は幸せだった。

今でも特番で彼の番組を見ると父のことを思い出しながら笑い、志村どうぶつ園を見ては彼の優しい笑顔に癒されてた。

気付けば彼の存在は私の幸せの象徴になっていたのかもしれない。


そんな彼が亡くなった。
病気なら仕方ない。
でも、原因はコロナウイルスだ。
病気というより事故に近いものだと思う。
もらい事故。
悲しい。
会ったこともない他人なのになんでこんなに滅入るのだろうと自分でも不思議だ。

発端の中国まで憎らしく思える。

コロナなんかにかからなければもっと長生きして
もっとたくさんの人に笑いと癒しを届けてくれただろうに。

こんなに人気者の彼の最期がこんな形なんて辛すぎる。
たくさんの人を笑いで救ってきた偉大な人なのに。

有名人の死で、コロナを軽く簡単に考えてる人達が
もっと慎重に行動してくれるようになってほしい。
志村けんが最期に命と引き換えに残したものは
もっと真剣に考えろよというメッセージなのかもしれない。